不均衡な屯田

魏國既建、為吏部郎。文帝踐阼、徙黄門侍郎、出為濟陰相、梁・譙二郡太守。
帝以譙舊郷、故大徙民充之、以為屯田。而譙土地墝瘠、百姓窮困、(盧)毓愍之、上表徙民於梁國就沃 衍、失帝意。雖聽毓所表、心猶恨之、遂左遷毓、使將徙民為睢陽典農校尉。毓心在利民、躬自臨視、擇居美田、百姓頼之。遷安平・廣平太守、所在有惠化。
(『三国志』巻二十二、盧毓伝)

漢王朝から魏王朝に替わった文帝の時代、譙郡の屯田には多くの屯田民が住まわされていたが、譙の土地は痩せていたために作物があまり取れず、人々は困窮していたという。




そこで譙郡太守の盧毓は近くの梁国の沃野へ民を分散させようという建言をしたのだが、そもそも痩せた譙郡に多数の屯田民が詰め込まれていたのは、譙郡を故郷とする文帝が望んでいたことであったので、盧毓は文帝からしてみればとんだ水差し野郎であったのだという。



文帝は盧毓をその屯田民を指揮する睢陽典農校尉にしてやった。



おそらく太守より格が落ちるので、これは左遷ということになる。





文帝が望んでいたというのは、故郷の人口を増やすためか、あるいは開墾などを進めるためか。


いずれにしろ、少なくともこの文脈上は効率や公的な利害からの決定ではなく、文帝の個人的な事情や思い入れによるものであると思われていたようだ。





というか、文帝の時代というのは7年ほどしかないわけだが、この期間中に文帝が余所から譙郡へ屯田民を多数引き入れたのか、それとも曹操の時代から譙郡への重点補強は続いていたことだったのだろうか。

それが気になる。



文帝にとって故郷というなら曹操にとっても故郷だからなぁ・・・。