(建安二十四年)秋、羣下上先主為漢中王、表於漢帝曰・・・(中略)・・・董卓首難、蕩覆京畿、曹操階禍、竊執天衡。皇后・太子、鴆殺見害、剝亂天下、殘毀民物。
(『三国志』巻三十二、先主伝)
劉備の臣下が劉備を漢中王にすべしと漢の皇帝へ上奏した(という体裁の)文中。
「董卓や曹操がエライ酷いことをしでかした。皇后や太子は毒殺され、天下みな大変な目にあった」
同じく皇太子で殺されたといえるのは・・・?
これやろなぁ・・・。
つまり、曹操が伏皇后と共に殺害したという2人の皇子には皇太子、または少なくとも後継者となりうる嫡子(太子と呼ばれるような)が含まれていたということになる。
まあ当然のことで、伏皇后が産んだ(あるいは自分の子とした)子ということは正室の子なのだから後継者候補一番手に決まっている。
曹操さんサイドは事件の首謀者ということになる伏皇后はまだしも、本人に罪はないのに皇太子まで殺したというのはなるべく言いたくなかったのかもなあ・・・。
実際劉備はそれを指弾しているわけだし。
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20121024/1351004505で推測したことは間違ってなかった、かも。