予言された人物

王延河平、纂禹之功。王延世、字長叔、資中人也。建始五年、河決東郡、氾濫兗豫四郡三十一縣、沒官民屋舍四萬所。御史大夫尹以不憂職致河決自煞。漢史案圖緯、當有能循禹之功、在犍・柯之資陽、求之、正得延世。徴拜河隄謁者治河。以竹落長四丈、大九圍、夾小船、載小石治之。三十六日、隄防成。帝嘉之、改年曰河平、封延世關内侯、拜光祿大夫。仍贈黄金百斤。
(『華陽国志』巻十中、広漢士女)

前漢成帝の時に黄河が決壊した際、その対応に当たる治水の専門家をどうやって探したかというと、「図緯」つまり予言の書に載っている「禹の治水の功績をなぞることができる人物が蜀の方にいる」という言葉に従ったのだそうだ。




そこで王延世なる人物が見いだされ、彼の指揮によって堤防が作られた、ということである*1





「予言の書に書いてある人物を高い地位に付けなきゃ」っていうのは王莽だけの専売特許ではなく、このあたりの時代では割とありがちな思考であったようだ。

*1:その後またすぐ決壊するのだが。