首都圏へ移住

帝欲徙冀州士家十萬戸實河南。時連蝗民饑、羣司以為不可、而帝意甚盛。(辛)毗與朝臣倶求見、帝知其欲諫、作色以見之、皆莫敢言。毗曰「陛下欲徙士家、其計安出」帝曰「卿謂我徙之非邪?」毗曰「誠以為非也。」帝曰「吾不與卿共議也。」毗曰「陛下不以臣不肖、置之左右、廁之謀議之官、安得不與臣議邪!臣所言非私也、乃社稷之慮也、安得怒臣!」帝不答、起入内。毗隨而引其裾、帝遂奮衣不還、良久乃出、曰「佐治、卿持我何太急邪?」毗曰「今徙、既失民心、又無以食也。」帝遂徙其半。
(『三国志』巻二十五、辛毗伝)

魏の文帝は冀州から十万戸という大規模な民の強制移住によって河南郡すなわち首都洛陽とその近辺の人口を充実させようとした。




だがこれは折からの蝗害による飢餓のために臣下には大不評だったといい、辛毗らは猛反対したが文帝はいよいよ怒って主張を曲げない。




それでも最後には辛毗が言うように食が不足するということが懸念されたのか、当初の予定は半分にすることになったという。






それまでは魏国の民として曹操曹丕が握っていた生産力を即位以降に全土の中心となるべき洛陽に移そうというのは理念としてはもっともであるし、主戦場となるはずの楊州・荊州に近づけるという意味で軍事的にも重要な一手だったのではないかと思う。




この時の移住が当初の予定通り十万戸だったら、三国のパワーバランスはどう変わったんだろうか。


それとも臣下が懸念したように飢餓が極限を超えて内乱が頻発することになったんだろうか。



少し興味があるところだ。