ある能吏の末路

及關中破、代張既領京兆尹。黄初中、儒雅並進、而(楊)沛本以事能見用、遂以議郎宂散里巷。沛前後宰歴城守、不以私計介意、又不肯以事貴人、故身退之後、家無餘積。治疾於家、借舍從兒、無他奴婢。後占河南几陽亭部荒田二頃、起瓜牛廬、居止其中、其妻子凍餓。沛病亡、郷人親友及故吏民為殯葬也。
(『三国志』巻十五、賈逵伝注引『魏略』)

後漢末から魏にかけての人物、楊沛。




彼は官吏としての能力で出世し京兆尹にまでなったが、私腹を肥やすことや有力者と繋がるといったことをやろうとしなかった清廉な人物であったという。




だが曹丕禅譲を受けると、儒学の素養のある人物が今まで以上に重んじられるようになり、彼は閑職に追いやられることとなった。




そして彼が引退して以降は、私腹を肥やさないでいたために家に財産は無く、妻子も貧窮の生活の中で餓えと寒さに苦しむこととなり、病気を治すにも甥から部屋を借りる始末で、自分の奴婢も持っていなかった。





彼が死去すると同郷の人や友人、かつて彼に恩を受けた民や故吏が葬儀を出してやったのだという。



これは楊沛が単に慕われていたとかいうことではなく、「彼の家独力では葬儀を出せるだけの余裕が無かった」という意味であろう。







なにしろ古代に属するような時代の話ではあるから現代にそのまま当てはめるべきではないとはいえ、この時代は積極的に私腹を肥やしていかないと引退後に生命が危険になるレベルで困窮するということらしい*1




一定以上の給料の保証、退職金、年金、再就職先といった現代の公務員の待遇が生まれた根本原因がなんとなく見えてくるような気がする話である。





*1:もちろん、元から大豪族であるとか一族に何人も高官がいるとかいった人たちは例外である。