賈充の妻

初、(賈)充前妻李氏淑美有才行、生二女褒・裕。褒一名荃、裕一名濬。父豐誅、李氏坐流徙。後娶城陽太守郭配女、即廣城君也。
武帝踐阼、李以大赦得還、帝特詔充置左右夫人、充母亦敕充迎李氏。郭槐怒、攘袂數充曰「刊定律令、為佐命之功、我有其分。李那得與我並!」充乃答詔、託以謙沖、不敢當両夫人盛禮、實畏槐也。而荃為齊王攸妃、欲令充遣郭而還其母。
時沛國劉含母、及帝舅羽林監王虔前妻、皆毋丘儉孫女。此例既多、質之禮官、倶不能決。雖不遣後妻、多異居私通。充自以宰相為海内準則、乃為李築室於永年里而不往來。
(『晋書』巻四十、賈充伝)

晋の武帝司馬炎の腹心、賈充。




彼の最初の妻は魏の李豊の娘であったが、李豊は誅殺されて一族は配流になり、賈充の妻もまた配流された。




賈充は新たに郭氏を後妻として迎えたのだが、司馬炎が皇帝に即位したときに天下に恩赦が下されると、李豊一族のような謀反人の家族たちにも恩赦が下り、配流先から戻ることができるようになった。




しかし、賈充の前妻李氏の場合、既に賈充には後妻がいるという問題が発生するのである。



これについて武帝は特別に「左右夫人」つまり正妻を二人置くことを許すことで対応しようとしたが、賈充は辞退し、李氏のための住居は用意してやったが正妻とはせず、その住居を訪れることもなかった、という*1





この時、賈充以外にも高官に母や妻が元謀反人一族であったために同じような事態に陥った者が多数いたらしい。




これはつまり、魏の司馬氏時代に謀反人となった者たちと縁続きだった者が晋代に高官になった、言い換えれば司馬氏の一門や与党であった者の中にも少なくなかったことになると思う。






曹爽、夏侯玄らの誅殺や毋丘倹、諸葛誕などの反乱は、どれも司馬氏関係者にとっても「骨肉の争い」であった、ということなのだろう。

*1:辞退した実際の理由は後妻の郭氏の反発が強く、賈充が郭氏を恐れたためであったとのことである。