『晋書』景帝紀を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/22/000100)の続き。





魏嘉平四年春正月、遷大將軍、加侍中・持節・都督中外諸軍・録尚書事。
命百官舉賢才、明少長、卹窮獨、理廢滞。
諸葛誕・毌丘儉・王昶・陳泰・胡遵都督四方、王基・州泰・鄧艾・石苞典州郡、盧毓・李豐掌選舉、傅嘏・虞松參計謀、鍾會・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙酆・張緝預朝議、四海傾注、朝野肅然。或有請改易制度者、帝曰「『不識不知、順帝之則』、詩人之美也。三祖典制、所宜遵奉。自非軍事、不得妄有改革。」
(『晋書』巻二、景帝紀

司馬師は撫軍大将軍になった翌年には大将軍になっている。何も付いていない「大将軍」の方が偉い。「ダルビッシュ」と「房総のダルビッシュ」みたいなものだ。




朝廷を切り盛りする司馬師



ここで出てくる人物のうち、傅嘏は傅巽の従子。


虞松は辺譲の外孫。辺譲は曹操に殺された人物である。


陳本は司徒に至った陳矯の子。


孟康は魏文の郭皇后(いわゆる郭女王)の姉の親族。『漢書』注釈者としても有名。


趙酆はどうやら趙咨の子のようだ。

初(司馬)朗所與俱徙趙咨、官至太常、為世好士。
【注】
咨字君初。子酆字子仲、晉驃騎將軍、封東平陵公。並見百官名
(『三国志』巻十五、司馬朗伝)


趙咨は司馬懿の兄の司馬朗の避難に同行した同じ県の人間なので、この司馬氏と趙氏は古くからの付き合いなのだろう。その次の世代同士なので、司馬師と趙酆も同郷で付き合いの長い二人だったのかもしれない。



張緝は張既の子で、当時の皇帝斉王芳の皇后になる張皇后の父である。




当然と言えば当然だが司馬氏ゆかりの人物が多く(例えば王粛は司馬昭の妻の父だし、王基や鄧艾は司馬懿の抜擢を受けた)、また魏王朝の要人の二世が多い。司馬師もそうだが。



ただそればかりでもなく、曹操に殺されたという辺譲の外孫虞松のような人物も混ざっていて、なかなか色々な出自の人間が揃っているという感じもする。





司馬師の「軍事以外は、みだりにこれまでの決まりを変えてはならん」というのは、逆に言うと軍事面では必要とあらば変えていく、という事だろうか。