扶風都尉

昨日の記事の「扶風都尉」についてだけれど、よく考えたら前漢の首都圏「三輔」にあった都尉は「右輔都尉」であった。


つまり、「扶風都尉」とはそれとはまた別の都尉なのである。




乙丑、初置長安・雍二營都尉官。
【注】
漢官儀曰「京兆虎牙・扶風都尉以涼州近羌、數犯三輔、將兵衞護園陵。扶風都尉居雍縣。故俗人稱雍營焉。」西羌傳云「虎牙都尉居長安。」
(『後漢書』本紀第五、孝安帝紀、永初四年)

軍營久出無功、有廢農桑、乃詔任尚將吏兵還屯長安、罷遣南陽・潁川・汝南吏士、置京兆虎牙都尉於長安、扶風都尉於雍、如西京三輔都尉故事。
(『後漢書』列伝第七十七、西羌伝)

「扶風都尉」は、後漢安帝の時に西羌対策に新設された都尉だった。

いわば即応体制を取るための基地に常時駐屯する軍団ということだろうか。




献帝の時の太守化は、その独立性を更に高め、中央から切り離してしまう目的があったのだろうか。

もちろんそこまでの意図はなかったかもしれないが。