延康元年の涼州

文帝即王位、初置涼州、以安定太守鄒岐為刺史。張掖張進執郡守舉兵拒岐、黄華・麴演各逐故太 守、舉兵以應之。(張)既進兵為護羌校尉蘇則聲勢、故則得以有功。既進爵都郷侯。
(『三国志』巻十五、張既伝)

後(麴)演復結旁郡為亂、張掖張進執太守杜通、酒泉黄華不受太守辛機、進・華皆自稱太守以應之。又武威三種胡並寇鈔、道路斷絶。武威太守毌丘興告急於(蘇)則。時雍・涼諸豪皆驅略羌胡以從進等、郡人咸以為進不可當。
(『三国志』巻十六、蘇則伝)

後漢と魏の丁度変わり目、曹丕が魏王となったのちのこと。



曹丕はそれまで雍州としていた河西の地を涼州とし、涼州刺史を送り込んだ。



しかし河西の人間がその刺史を拒否して自立、太守を捕えたり追い払ったりした。



涼州・雍州の豪族たちにも彼らに従う者が多く、当初は魏の将軍も恐れる勢いであったのだという。






建安年間に河西を雍州としたときも失敗しているし、河西は分離して刺史を置かれることを良く思っていないのだろうか。



刺史というのは監察官なので、近くに居座って常時監視する者がいる状況は望ましくなかった、というところか?