楊阜と曹洪とおねいちゃん

以前、涼州の人楊阜は馬超の乱前夜に馬超の動きを警戒し、曹操に対応を願い出ていたということを記事にした(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140409/1396972042)。




曹操は十分な備えをせず、馬超は実際に反乱を起こし、涼州は戦場となって刺史韋康は降伏後殺害された。



楊阜らは馬超に対して反攻の狼煙を挙げ、犠牲を出しつつも馬超を追い出し、楊阜は曹操の目に留まって刺史や太守を歴任するのだった。




劉備張飛馬超等從沮道趣下辯、而氐雷定等七部萬餘落反應之。太祖遣都護曹洪禦超等、超等退還。洪置酒大會、令女倡著羅縠之衣、蹋鼓、一坐皆笑。(楊)阜窅聲責洪曰「男女之別、國之大節、何有於廣坐之中裸女人形體!雖桀・紂之亂、不甚於此。」遂奮衣辭出。洪立罷女樂、請阜還坐、肅然憚焉。
(『三国志』巻二十五、楊阜伝)

彼が蜀に接する武都太守であった時、蜀の劉備張飛馬超に下弁を攻めさせた。



曹操は幹部曹洪らを派遣して馬超らを退けることに成功した。




そこで曹洪は祝宴を開き、ものすごく薄い着物だけを来たコンパニオンたちをムーディーな音楽をバックに登場させる出し物(意味深)を催した。





それに対し同席した楊阜激おこ。




「桀・紂の乱行でさえもこれほどではなかった!」とまで言い放って席を立ち、曹洪らもやりすぎたと思ったのかコンパニオンを引っ込めたという。






楊阜の涼州での修羅場。戦前に曹操に進言したことが通らなかったこと。馬超を追い払うためにどれだけ犠牲を払ったか。



楊阜の心中を察するに、憎き馬超を破ったからといってコンパニオンのおねいちゃんとキャッキャウフフできるような心境になれたとはとても思えない。



「桀・紂以上」という言葉に、涼州の官民を半ば見捨てた曹操の決断に対する恨みがこもっているとまで言ってはうがちすぎだろうか。





とにかく、この時の楊阜にとっては本当に我慢できないくらいの愚挙だったんだと思う。