疑いの目

侯音・衛開等以宛叛、(龐)悳將所領與曹仁共攻拔宛、斬音・開、遂南屯樊、討關羽。
樊下諸將以悳兄在漢中、頗疑之。悳常曰「我受國恩、義在效死。我欲身自撃羽。今年我不殺羽、羽當殺我。」後親與羽交戰、射羽中額。時悳常乗白馬、羽軍謂之白馬將軍、皆憚之。
(『三国志』巻十八、龐悳伝)

馬超の元にいたが曹操に降伏した龐悳龐徳)。彼は劉備の将関羽と対峙する軍にいた時に、「兄が劉備の元にいる」という事で疑う者が多かったようだ。そもそも旧主馬超劉備の元にいるわけだし。




龐徳はその疑いの目に対し、いわば無言実行という感じで反論したわけだが、よくよく考えてみると、その疑いの目というのも理解できるというものだろう。




何しろ、旧主馬超といえば涼州では刺史韋康らの降伏を受け入れておきながら開城後に殺すという畜生ムーブをやった人物で、その時も龐徳馬超と一緒にいたのだ。


そういう畜生ムーブの後継者みたいに見られても反論しがたいところだろう。



また、「(曹操または漢皇帝への)恩を返す」という点について、これを徹底すれば、逆にこれまでの主である馬超への恩を返さないのは変だ、という事にもなりかねない。義理堅さをアピールしようとすればするほど、「馬超の元へ帰ろうとするのではないか・・・?」と疑われてしまうかもしれない。


なにしろ、敵の関羽は実際に一度は曹操に降伏して一時は将として働いたにも関わらず、旧主劉備の元に戻った。

関羽の離脱という苦い思い出が残る曹操旗下の者たちほど、龐徳を単純に信用するわけにはいかなくなっていたのではないか。




というわけで、龐徳が当時の曹操の軍内で疑われるのも無理はないし、戦い続けるしか証を立てる術は無かった、という事なのだろうと思う。




というか韋康恩顧の楊阜あたりは龐徳の事も仇と思ってたかもしれないなあ・・・。