言行不一致

後以(崔)篆為建新大尹、篆不得已、乃歎曰「吾生無妄之世、値澆・羿之君、上有老母、下有兄弟、安得獨潔己而危所生哉?」乃遂單車到官、稱疾不視事、三年不行縣。
(『後漢書』列伝第四十二、崔駰伝)

孔僖字仲和、魯國魯人也。自安國以下、世傳古文尚書・毛詩。曾祖父子建、少遊長安、與崔篆友善。及篆仕王莽為建新大尹、嘗勸子建仕。對曰「吾有布衣之心、子有袞冕之志、各從所好、不亦善乎!道既乖矣、請從此辭。」遂歸、終於家。
(『後漢書』列伝第六十九上、儒林列伝上、孔僖)


王莽の腹心だった崔発の弟の崔篆は、王莽に仕えることをあまり快く思っていなかったらしく、王莽の時代に「建新大尹」という太守相当の官位に任命されると、「俺一人が自分の誇りを保つために(拒否をして)親兄弟まで危険な目に遭わせられない」と嘆いて嫌々官に就いた、という。





一方、孔丘先生の子孫である孔僖は崔篆と友人だったが、崔篆は自分が「建新大尹」に任命されると、孔僖にも仕官を勧めたという。


孔僖は「ミーには仕官せずにいる志があり、ユーには仕官する志がある。それぞれの好みに従って行動するのだからそれでいいじゃないか。道は別れたのだからこれでさよならしよう」と好みの合わない崔篆に別れを告げた、のだそうだ。






崔篆は自分が為りたがってないはずの王莽の官僚に、仕官したくないらしい孔僖を誘ったのか・・・。

なんかおかしくないですかね・・・?