新興王

(景耀)二年夏六月、立子(劉)褜為北地王、恂為新興王、虔為上黨王。
(『三国志』巻三十三、後主伝)

省雲中・定襄・五原・朔方郡、郡置一縣領其民、合以為新興郡。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安二十年)


三国時代蜀の末期、皇帝劉禅の子供たちが王となっているが、その中の劉恂は「新興王」なのだそうだ。




つまり「新興」という国(郡)の王となったわけだが、この郡は後漢末に曹操によって雲中・定襄・五原・朔方の各郡を実質廃止し、一つにまとめた郡のことだろう。




実際にそこに赴任したりできるはずのない「遥任」という奴だが、北地王といい上党王といい、なぜか北辺で北方異民族が跋扈するような地ばかりが選ばれているような気がする。