先日もネタにしたように、後漢末に雲中・定襄・五原・朔方郡は新興郡という一つの郡として生まれ変わった。
ところで、かの呂布の本籍は五原郡とされているが、これも後漢末以降は新興郡だったことになる。
晋の人である陳寿はこの伝を編集する際、現在の郡名である「新興」に書き換えず、当時の記述のままにしたということだろうか。
ちなみに張楊も新興の人ではなく雲中の人と書かれている。
秦秀字玄良、新興雲中人也。父朗、魏驍騎將軍。秀少敦學行、以忠直知名。
(『晋書』巻五十、秦秀伝)
一方で、晋の時代の人秦秀(秦宜禄の孫、秦朗の子)は雲中の人だそうだが、こちらはちゃんと新興郡の雲中県の人であると書かれている。
彼の場合誕生した頃から新興郡だから当然と言えるが。