独断専行か否か

永平中、奉車都尉竇固出撃匈奴、騎都尉秦彭為副。彭在別屯而輒以法斬人、固奏彭專擅、請誅之。顯宗乃引公卿朝臣平其罪科。(郭)躬以明法律、召入議。議者皆然固奏、躬獨曰「於法、彭得斬之。」帝曰「軍征、校尉一統於督。彭既無斧鉞、可得專殺人乎?」躬對曰「一統於督者、謂在部曲也。今彭專軍別將、有異於此。兵事呼吸、不容先關督帥。且漢制棨戟即為斧鉞、於法不合罪。」帝從躬議。
(『後漢書』列伝第三十六、郭躬伝)

後漢明帝の時代。




匈奴攻撃に出た奉車都尉竇固の副となった騎都尉秦彭は、自分の軍営内で法に従って人を斬刑に処した。



だが奉車都尉竇固はこれを秦彭の独断専行の越権行為として処断することを朝廷へ願い出た。




明帝は群臣を集めて議論し、その中には法律に明るい潁川陽翟の人郭躬も加わっていた。




皆が「竇固が正しい。斧鉞も無いのに独断で人を殺すことはできない」と言う中、郭躬だけは秦彭の行動は問題が無いと言う。




彼によれば、「校尉は大将に所属するものだから独断は許されないが、それは部曲の校尉のことであり、秦彭は独立した別の軍を率いている。軍事の事はその場で判断する必要があるものなので、先に上司に判断を仰ぐことができないものだ。それに漢では棨戟が斧鉞の代わりとなっているのだから、秦彭には罪は無い」のだそうで、明帝も彼の言葉に従うこととなった。





軍制の事は良くわからないが、どうやら秦彭は「斧鉞」は与えられていないがそれに代わる「棨戟」は与えられているから専断しても良いのだ、ということらしい。