東安郡

是時丹楊・呉・會山民復為寇賊、攻沒屬縣、(孫)權分三郡險地為東安郡、(全)蒴領太守。至、明賞罰、招誘降附、數年中、得萬餘人。權召蒴還牛渚、罷東安郡。
(『三国志』巻六十、全蒴伝)

孫権は呉の領内の呉・会稽方面に自分に従わない賊が多かったため、そういった賊が根城にする険阻な土地を纏めて一つの「東安郡」という郡にしてしまい、その郡を娘婿である全蒴に任せて賊の討伐・鎮撫をやらせることにした。



数年後、東安郡での賊討伐や懐柔が上手くいったため、東安郡を解体して元に戻したという。





郡がまたがると軍事行動にしろ懐柔にしろ面倒になるから、一時的に一つにして風通しを良くしようということなのだろう。




廃止前提の一時的な郡を設立(賊の鎮圧ができなければ延々続いたんだろうけど)という事例もあるんだなあ。





ちなみに晋は全然違う場所に東安郡を作っている。