以前の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20150626/1435245243)で、後漢末霊帝の董太后が「皇太后であって皇太后ではない」という極めて曖昧な地位であったのではないかと述べた。
三国時代にも、細かい点は違うが「曖昧な地位」という意味では近い立場にあったんじゃないかという事例を見つけた。
呉主(孫)權歩夫人、臨淮淮陰人也,與丞相騭同族。
漢末、其母攜將徙廬江、廬江為孫策所破、皆東渡江、以美麗得幸於權、寵冠後庭。生二女、長曰魯班、字大虎、前配周瑜子循、後配全蒴、少曰魯育、字小虎、前配朱據、後配劉纂。
夫人性不妒忌、多所推進、故久見愛待。權為王及帝、意欲以為后、而羣臣議在徐氏、權依違者十餘年、然宮内皆稱皇后、親戚上疏稱中宮。
(『三国志』巻五十、歩夫人伝)
呉の孫権の夫人の一人、歩夫人。
彼女は孫権に気に入られ、孫権の後宮での支持率も高く、後宮内では「皇后」と呼ばれていたが、生前の間に正式に皇后に立てられることはなかった。
それは皇后として徐氏を支持する声も根強かったからだそうだが、孫権や後宮としてはあくまでも歩氏を皇后として扱っていた、ということらしい。
想像になるが、董太后も彼女を皇太后として扱いたい勢力と反対する勢力とが拮抗し、「実質は皇太后だが正式には皇太后ではない」という玉虫色の決着をつけなければいけない状況だったということなのだろう。