州を越えて

呉録曰、是時廬江太守陸康從子作宜春長、為賊所攻、遣使求救於(孫)堅。堅整嚴救之。主簿進諫、堅答曰「太守無文徳、以征伐為功、越界攻討,以全異國。以此獲罪、何媿海内乎?」乃進兵往救、賊聞而走。
(『三国志』巻四十六、孫堅伝注引『呉録』)

孫堅の長沙太守時代の事。



廬江太守陸康の従子が揚州予章郡宜春県長だったが、謀反人に攻められた。


そこで孫堅に救援要請が届いたという。




孫堅はそれに応じて兵を出そうとしたが、郡の主簿はそれを諫めたのだそうだ。





これは、孫堅の「これによって罪を得たとしても、世間に対して恥じることがあろうか」という言葉から考えると、越境の出兵である事から違法行為として処罰される恐れがあった事によるのだと思う。




郡どころか州(長沙郡は荊州)まで越えての出兵になるのだから。




各地で反乱が頻発していた後漢末では孫堅に限らずしばしばあった事なのかもしれないが、孫堅は元々郡や州の境界といった意識が少ない太守だったと言えるのではなかろうか。