項羽が封建した十八諸侯のうち、当初より最も反抗的だったのは斉の諸侯であろう。
田榮聞項羽徙齊王市膠東、而立齊將田都為齊王、乃大怒、不肯遣齊王之膠東、因以齊反、迎撃田都。田都走楚。齊王市畏項王、乃亡之膠東就國。田榮怒、追撃殺之即墨。榮因自立為齊王、而西撃殺濟北王田安、并王三齊。
(『史記』巻七、項羽本紀)
斉の王に立てられなかった実力者田栄は項羽の立てた王らを破って斉を統一し自立した。
その後も斉は項羽と戦いを繰り返し、劉邦の使者酈食其の説得によって漢に与することとなる(なお韓信)。
その理由は根本的には斉が実力ある国であって楚にも対抗しうる底力があるから、なのかもしれないが、こんな事情も影響しているのではなかろうか。
項羽が言うところによれば、項羽が殺した楚の大将宋義は斉と通じていたという。
確かに宋義は息子を斉に送り込むなど斉との繋がりを匂わせるところがある。
だが一方で宋義といえば以前も説いたように楚が秦を滅ぼすために秦軍を足止めしたのではないかとも考えられる。
ということは、宋義は楚と斉の橋渡しをしていたのだろう。
秦軍を撃退するための同盟関係であるとか、楚が秦に勝った場合に斉との関係をどうするか、といった点なども話し合われていたのではないだろうか。なにしろ秦を打倒すれば残る強国は楚と斉ということになるのだから。
いわば、秦打倒後の天下についての二頭会談である。
斉からすれば、項羽の所業というのは冷静に契約内容を話し合っていた相手をいきなり飛ばされるようなものだ。
こんな相手を信用できないと斉さんサイドが感じるのも無理のないところだろう。
項羽のクーデターによる宋義殺害は、楚の軍権掌握と引き換えに斉と楚、特に項羽本人との関係を絶望的に悪化させることとなった・・・のではなかろうか。