『晋書』武帝紀を読んでみよう:その13

その12(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/09/28/000100)の続き。





四年春正月辛未、以尚書令裴秀為司空。
丙戌、律令成、封爵賜帛各有差。有星孛于軫。
丁亥、帝耕於藉田。
戊子、詔曰「古設象刑而衆不犯、今雖參夷而姦不絶、何徳刑相去之遠哉!先帝深愍黎元、哀矜庶獄、乃命羣后、考正典刑。朕守遺業、永惟保乂皇基、思與萬國以無為為政。方今陽春養物、東作始興、朕親率王公卿士耕藉田千畝。又律令既就、班之天下、將以簡法務本、惠育海内。宜寬有罪、使得自新,其大赦天下。長吏・郡丞・長史各賜馬一匹。」
二月庚子、增置山陽公國相・郎中令・陵令・雜工宰人・鼓吹車馬各有差。
罷中軍將軍、置北軍中候官。
甲寅、以東海劉儉有至行、拝為郎。
以中軍將軍羊祜為尚書左僕射、東莞王伷為尚書右僕射。
三月戊子、皇太后王氏崩。
(『晋書』巻三、武帝紀)

泰始4年。


文帝為晉王、患前代律令本注煩雜、陳羣・劉邵雖經改革、而科網本密、又叔孫・郭・馬・杜諸儒章句、但取鄭氏、又為偏黨、未可承用。
於是令賈充定法律、令與太傅鄭沖・司徒荀覬・中書監荀勖・中軍將軍羊祜・中護軍王業・廷尉杜友・守河南尹杜預・散騎侍郎裴楷・潁川太守周雄・齊相郭頎・騎都尉成公綏・尚書郎柳軌及吏部令史榮邵等十四人典其事、就漢九章增十一篇、仍其族類、正其體號、改舊律為刑名・法例、辨囚律為告劾・繫訊・斷獄、分盜律為請賕・詐偽・水火・毀亡、因事類為衛宮・違制、撰周官為諸侯律、合二十篇、六百二十條、二萬七千六百五十七言。蠲其苛穢、存其清約、事從中典、歸於益時。其餘未宜除者、若軍事・田農・酤酒、未得皆從人心、權設其法、太平當除、故不入律、悉以為令。施行制度、以此設教、違令有罪則入律。其常事品式章程、各還其府、為故事。減梟斬族誅從坐之條、除謀反適養母出女嫁皆不復還坐父母棄市、省禁固相告之條、去捕亡・亡沒為官奴婢之制。輕過誤老少女人、當罰金杖罰者、皆令半之。重姦伯叔母之令、棄市。淫寡女、三歳刑。崇嫁娶之要、一以下娉為正、不理私約。峻禮教之防、準五服以制罪也。
律令合二千九百二十六條、十二萬六千三百言、六十卷、故事三十卷。泰始三年事畢、表上。
(『晋書』巻三十、刑法志)

いわゆる泰始律令の制定である。司馬昭の時から進められていたそうだが、ここに完成した。



漢、魏と制度が変遷していく中で法令が整理されていない状態が生じ、また蜀漢が無くなった事で政治的にも人材等の面でも余裕が出た、という面もあっただろう。



二国を敵に回していた常時戒厳令状態の魏では、そのつもりはあっても中々進められなかった事業だったのかもしれない。





都護将軍に続いて、中軍将軍も廃止。


北軍中候」というのは後漢のいわゆる「五校」(屯騎校尉・越騎校尉・歩兵校尉・長水校尉・射声校尉)の監督官。「五校」は王朝の皇帝直属の中央軍の将校と言ったところだろうか。

中領軍將軍、魏官也。漢建安四年、魏武丞相府自置、及拔漢中、以曹休為中領軍。文帝踐阼、始置領軍將軍、以曹休為之、主五校・中壘・武衛等三營。武帝初省、使中軍將軍羊祜統二衛・前・後・左・右・驍衛等營、即領軍之任也。
(『晋書』巻二十四、職官志)


中軍将軍は後漢末の中領軍が源流であるとされているようで、後漢末から魏、晋初にかけては中央軍を中領軍・領軍将軍・中軍将軍が率いる形であったようだ。



都護将軍を解体して宮殿内の護衛を元に戻した次は、中央軍の制度も元に戻そうとした、という事か。