『漢書』昭帝紀を読んでみよう:その11

その10(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180126/1516892577)の続き。




六年春正月、募郡國徒築遼東玄菟城。
夏、赦天下。詔曰「夫穀賤傷農、今三輔・太常穀減賤、其令以叔粟當今年賦。」
右將軍張安世宿衛忠謹、封富平侯。
烏桓復犯塞、遣度遼將軍范明友撃之。
(『漢書』巻七、昭帝紀

元鳳6年。


(張)安世字子孺、少以父任為郎。用善書給事尚書、精力於職、休沐未嘗出。上行幸河東、嘗亡書三篋、詔問莫能知、唯安世識之、具作其事。後購求得書、以相校無所遺失。上奇其材、擢為尚書令、遷光祿大夫。
昭帝即位、大將軍霍光秉政、以安世篤行、光親重之。
會左將軍上官桀父子及御史大夫桑弘羊皆與燕王・蓋主謀反誅、光以朝無舊臣、白用安世為右將軍光祿勳、以自副焉。
久之、天子下詔曰「右將軍光祿勳安世輔政宿衛、肅敬不怠、十有三年、咸以康寧。夫親親任賢、唐虞之道也、其封安世為富平侯。」
(『漢書』巻五十九、張安世伝)


張安世はあの張湯の子。武帝の時に尚書尚書令になり、昭帝即位後に光禄勲に遷った(上記列伝ではそう書いていないが、『漢書』百官公卿表下ではそうなっている)。



そして元鳳元年、上官桀らが誅殺された後には右将軍と光禄勲を兼任するようになって今に至っている。


光禄勲というのは宮殿の警護の担当大臣であるから、いわば昭帝を直接守る責任者になっていたと言ってもいいだろう。




霍光からすると重要な協力者的なポジションと言えるだろう。だが、娘婿の范明友のような「子飼い」ではないという点に注目しておくべきだ。




そして張安世には兄がいる。名は張賀


この名はまたいずれ見ることがあるはずである。