比景

帝因是御前殿、召諸尚書入、發其事、使尚書令尹勳持節勒丞郎以下皆操兵守省閣、斂諸符節送省中。使黄門令具瑗將左右廄騶・虎賁・羽林・都候劒戟士合千餘人、與司隸校尉張彪共圍(梁)冀第。使光祿勳袁盱持節收冀大將軍印綬、徙封比景都郷侯。冀及妻壽即日皆自殺。
(『後漢書』列伝第二十四、梁冀伝)

後漢桓帝が大将軍梁冀を排除するという逆クーデターを敢行した際、桓帝は梁冀から大将軍の地位を取り上げるとともに、爵位を「比景都郷侯」に移したという(それまでは乗氏侯)。





これはどういうことかというと、「比景」というのは日南郡にある県で、後漢ではしばしば配流先となっている場所でもあったようなのだ(梁冀はこの日南郡比景県の都郷を領土とする侯になった、ということである)。




桓帝は梁冀を殺る気満々だったと思われるので、爵位など今更どうなっても良いのではないかとも思えるが、梁冀を配流先の侯へと格下げすることで、誰の目にも梁冀の処遇を明らかにするという意味はあったのではなかろうか。