漢の漢たちを語る15「虎の穴」:尹賞

前漢も末に近い成帝の時代、長安近辺は外戚王氏が組のバックについたり犯罪者を匿ったりするものだから、無類の犯罪都市と化していたという。


国家権力の中枢にいた外戚が自ら犯罪者の後押しをしていたと言われるのだから、まさに世も末である*1


そんな世紀末に救世主の如く出現したのが尹賞という人物だった。



(尹)賞以三輔高第選守長安令、得壹切便宜從事。賞至、修治長安獄、穿地方深各數丈、致令辟為郭、以大石覆其口、名為「虎穴」。
乃部戶曹掾史、與郷吏・亭長・里正・父老・伍人、雜舉長安中輕薄少年惡子、無市籍商販作務、而鮮衣凶服被鎧扞持刀兵者、悉籍記之、得數百人。
賞一朝會長安吏、車數百両、分行收捕、皆劾以為通行飲食群盜。賞親閱、見十置一、其餘盡以次内虎穴中、百人為輩、覆以大石。數日壹發視、皆相枕藉死、便輿出、瘞寺門桓東、楬著其姓名、百日後、乃令死者家各自發取其尸。親屬號哭、道路皆歔欷。長安中歌之曰「安所求子死?桓東少年場。生時諒不謹、枯骨後何葬?」
賞所置皆其魁宿、或故吏善家子失計隨輕黠願自改者、財數十百人、皆貰其罪、詭令立功以自贖。盡力有效者、因親用之為爪牙、追捕甚精、甘耆姦惡、甚於凡吏。
賞視事數月、盜賊止、郡國亡命散走、各歸其處、不敢闚長安
(『漢書』巻九十、酷吏伝、尹賞)

彼は駆け出しの頃にもその酷吏としての実力を認められて敢えて困難な県に配置換えされた程の人物。


そんな彼が長安県の令となると、まず穴を掘ることから始めた。

その穴は「虎穴」と名付けられたが、タイガーマスクとは特に関係が無い。



それから長安中の暴走族、闇商人、暴力団といった重犯罪者たちを部下や一般民衆に列挙させ、数百人の犯罪者をあぶり出した。


それから彼はある日官吏たちを総動員し、一気にその犯罪者たちを全て捕えたのだった。

尹賞はそのうち十人に一人だけは許し、残りの九割は「虎穴」に突っ込み、そのまま穴に蓋をして放置してしまった。


もちろん「虎穴」に入れられた犯罪者たちは全員が死亡。
その死体を尹賞は役所の掲示板の東側に埋めてしまい、掲示板にその名前を張り出した。




この恐るべき処置に長安中は震え上がった。




だがこの件で最も恐ろしいのはその後である。


逮捕しながら許してやった一割の人間はどうしたか。


尹賞が許したのは犯罪集団のリーダー格や、悔い改めた人間であった。

尹賞は彼らに対して手柄を立てることを許す条件とし、自分の手下やスパイとして活用したのである。
元が犯罪者であるから犯罪者の事は良くわかっているし、尹賞の印象が恐ろしいから積極的に従うしかない。

こうして仲間を大量殺戮した県令の手下となった元犯罪者たちは、そこらの官吏とは比べ物にならないくらい熱心な官吏となったという。


ただ犯罪者を捕まえて処刑するだけでなく、次に活かすことまで考えるあたり、尹賞はかなりの切れ者と言えよう。



數年卒官。疾病且死、戒其諸子曰「丈夫為吏、正坐殘賊免、追思其功效、則復進用矣。一坐軟弱不勝任免、終身廢棄無有赦時、其羞辱甚於貪汙坐臧。慎毋然!」賞四子皆至郡守、長子立為京兆尹、皆尚威嚴、有治辦名。
(『漢書』巻九十、酷吏伝、尹賞)


尹賞は死に際に官僚となっていた息子たちに対してこんなことを遺言したという。

「官僚としては、残酷で厳しすぎるという理由で罷免されても、後からその功績を思い出してもらえるから、また出世することができよう。だが一旦弱腰で長官の任に耐えないという理由で罷免されてしまったら一生干されてしまう。これは汚職の罪で訴えられるよりも恥であるぞ」


当時の官僚、特に太守や県令などといった長官の存在に関して興味深い話だと言えるだろう。




*1:もっとも、そういった例は近現代でもないこともないから一概には言えないかもしれない。