議郎

蘇建盡亡其軍、獨以身得亡去、自歸(衛)青。青問其罪正閎・長史安・議郎周霸等、建當云何。霸曰「自大將軍出、未嘗斬裨將、今建棄軍、可斬、以明將軍之威。」閎・安曰「不然。兵法『小敵之堅、大敵之禽也。』今建以數千當單于數萬、力戰一日餘、士皆不敢有二心。自歸而斬之、是示後無反意也。不當斬。」青曰「青幸得以胏附待罪行間、不患無威、而霸説我以明威、甚失臣意。且使臣職雖當斬將、以臣之尊寵而不敢自擅專誅於境外、其歸天子、天子自裁之、於以風為人臣不敢專權、不亦可乎?」軍吏皆曰「善」。遂囚建行在所。
【注】
張晏曰「正、軍正也。閎、名也。」如淳曰「律,都軍官長史一人。」
(『漢書』巻五十五、衛青伝)


前漢武帝の時の大将軍衛青。


彼が諸将を率いて匈奴と戦った時、右将軍の蘇建(蘇武の父)は匈奴との戦いに敗れて兵を失って総大将衛青の元へ逃げ込んできた。



そこで衛青は彼の処遇を部下と相談したが、そこで出てきているのが「軍正」と「長史」と「議郎」であった。



おそらく「軍正」は軍監の類なのではなかろうか。地位は割と高かったのではないかと思う*1


長史は将軍府の副官なので、こういった場での主要メンバーになるのは当然だろう。


で、ちょっと面白いと思ったのは、「議郎」が混ざっていることである。
素直に考えれば「議郎」といえば郎中令(光禄勲)に属して皇帝の側近として働く「議郎」のことと考えられる。

つまり大将軍衛青の出征先の幕府内には、皇帝の側近の「議郎」が出向していたのだ。

お目付け役的なものなのだろうか。

*1:後の時代、大将軍霍光の軍正と思われる王平は九卿クラスの高官であった。