漢の漢たちを語る8「青春の過ち」:韓嫣

かの有名な漢の武帝は数多くの寵臣を抱えていたが、その中でも彼にとって特別に思い入れがあったのは有名な衛青や霍去病ではなかったと思う。


では、誰だろうか。




今天子中寵臣、士人則韓王孫嫣、宦者則李延年。
嫣者、弓高侯孼孫也。今上為膠東王時、嫣與上學書相愛。及上為太子、愈益親嫣。
嫣善騎射、善佞。上即位、欲事伐匈奴、而嫣先習胡兵、以故益尊貴、官至上大夫、賞賜擬於訒通。時嫣常與上臥起。
(『史記』巻百二十五、佞幸列伝)


それはこの韓嫣だと思う。


彼は弓高侯韓穨当の孫であり、武帝が太子になる以前からの「御学友」であった。



この韓穨当というのは漢の高祖の時に反乱を起こし匈奴に逃げた韓王韓信(韓王信)の子であり、その後漢に降伏して戻ってくると呉楚七国の乱の時には騎兵を率いて功を立てた武人。





彼の孫である韓嫣も、おそらくは騎兵の扱いについて祖父などから教えられたりしていたのだろう。


武帝匈奴討伐を志していたため、韓嫣のことを寵愛し、いずれは匈奴討伐の大将にするつもりだったのだろう。


なにしろ匈奴を討つ大軍ということは、反旗を翻したら漢を討てるような大軍ということである。

その将には反抗の心配がない絶対の忠誠が必要だったのだろうから、度を過ぎているようにすら見える寵愛を与えたのだと思われる。





それだけではない。

「時嫣常與上臥起」とあるように、武帝は彼をベッドの上でも「寵愛」していたのだ。


これは武帝が「自分に抱かれるなんて最上級の寵愛であるぞ」と思っていたものか、「その能力を繋ぎとめる寵愛を得るためならワシの身体など惜しくない」という気持ちだったのか、それともただ韓嫣がエロいことしたくなるような男の娘だっただけなのか、よくわからない*1



とにかく言えることは、武帝匈奴を討つために韓嫣を愛したのだ、ということだ。



しかし韓嫣はそのあまりの寵愛と増上ぶりから周囲、特に皇太后に嫌われ、彼が武帝と共に後宮にも入り、宮女と色々やっちゃってると言う話が報告されると皇太后は怒って彼に死を賜った。


もしかしたらこれも武帝による韓嫣歓待の一つだったのかもしれない。
何しろ、韓嫣は匈奴と縁の深い貴公子なので、本当に彼の心を掴んでいないと匈奴に再度降伏してしまう恐れがある。匈奴に派遣するなら、そうならないだけの忠誠を買う必要があったのだ。

だとしたら、武帝の考えが裏目に出たということだろう。




韓嫣は、実は衛青・霍去病のなりそこないなのである。



自是之後、内寵嬖臣大底外戚之家、然不足數也。衛青・霍去病亦以外戚貴幸、然頗用材能自進。
(『史記』巻百二十五、佞幸列伝)


武帝が衛青・霍去病を寵姫(皇后)の血縁者から選んだのは、韓嫣の時の色々な意味でのやりすぎを反省し、あまりな接待攻撃や武帝自らの色仕掛けをしなくても忠誠が期待できる外戚を使う事にした、という事なのかもしれない。



だがきっと、年老いた武帝は、青春時代の思い出でもあり、また失敗の象徴でもある韓嫣のことを考えては身体が夜泣きしていたんじゃないか、と思う。




*1:これは勘ぐりすぎだろうが、「嫣」という「女」の入る字が使われているあたり、男の娘っぽい雰囲気だったなんてこともあるかもしれない。