『江表伝』の異説

(孫)晧疾(樓)玄名聲、復徙玄及子據、付交阯將張奕、使以戰自效、陰別敕奕令殺之。據到交趾、病死。玄一身隨奕討賊、持刀歩渉、見奕輒拜、奕未忍殺。會奕暴卒、玄殯斂奕、於器中見敕書、還便自殺。
【注】
江表傳曰、晧遣將張奕追賜玄鴆、奕以玄賢者、不忍即宣詔致藥、玄陰知之、謂奕曰「當早告玄、玄何惜邪?」即服藥死。
臣松之以玄之清高、必不以安危易操、無縁驟拜張奕、以虧其節。且禍機既發、豈百拜所免?江表傳所言、於理為長。
(『三国志』巻六十五、楼玄伝)


呉の孫晧の時代、皇帝孫晧に嫌われた大臣の楼玄は交阯に配流され、そこの将であった張奕の元に付けられた。


張奕は孫晧より密かに楼玄抹殺指令を受けていたが、楼玄は張奕に会うたびごとにうやうやしく拝礼を行ったので殺すに忍びなく、実行できなかった。

そうしたところ張奕の方が先に急死してしまい、楼玄は彼の葬儀を行った。


彼の遺品から孫晧の抹殺指令文書を発見した楼玄は、張奕に下された命令を自ら実行したのだった。




という『三国志』本伝の異説として、注は『江表伝』を収録している。


それによればこうなっている。


孫晧は張奕に楼玄抹殺指令を出していたが、張奕は楼玄が賢者であると思い殺すに忍びなく、実行できないでいた。

しかし楼玄の方がそのことを知り、張奕に「早く私に言うべきです。私などは惜しくありません」と言い、毒を飲んで自ら命を絶った。





裴松之の言うように、自分にぺこぺこしていたから殺すのをためらったというよりは賢者だと思ったからという方が話は綺麗である*1


どちらかというとあまり良く言われていない印象がある『江表伝』だが、ここでは『三国志』より妥当だという評価をされているのが面白い。

*1:綺麗じゃない『三国志』の方が真実なんじゃないかと思わないでもないが。