恐るべき風習

(周)舉稍遷并州刺史。
太原一郡、舊俗以介子推焚骸、有龍忌之禁。至其亡月、咸言神靈不樂舉火、由是士民毎冬中輒一月寒食、莫敢煙爨、老小不堪、歳多死者。
舉既到州、乃作弔書以置子推之廟、言盛冬去火、殘損民命、非賢者之意、以宣示愚民、使還温食。於是衆惑稍解、風俗頗革。
(『後漢書』列伝第五十一、周挙伝)


後漢のこと、太原郡では春秋時代の賢人介子推が焼死したという伝説から、彼が焼死した冬に一月の間火を使わないで生活するという壮絶な我慢比べ状態の風習があったという。

冬の寒い中で行われるため、老人や子供は何人も死んでいたようだ。



太原郡を管轄する并州刺史となった周挙はこの風習を止めさせたが、逆に言えばそれまではずっと続いていたらしい。


前漢末から後漢初めにかけての人物である桓譚の『新論』にも見えるので、おそらく前漢末には成立していた風習だったのだろう。というより、漢代以前、春秋戦国の時代から続いていた可能性もある。