『三国志』武帝紀を読んでみよう:その29

その28(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/03/000100)の続き。





秋八月、公征之、斬(趙)犢等、乃渡潞河救獷平、烏丸奔走出塞。
九月、令曰「阿黨比周、先聖所疾也。聞冀州俗、父子異部、更相毀譽。昔直不疑無兄、世人謂之盜嫂。第五伯魚三娶孤女、謂之撾婦翁。王鳳擅權、谷永比之申伯。王商忠議、張匡謂之左道。此皆以白為黑、欺天罔君者也。吾欲整齊風俗、四者不除、吾以為羞。」
冬十月、公還鄴。
初、袁紹以甥高幹領并州牧、公之拔鄴、幹降、遂以為刺史。幹聞公討烏丸、乃以州叛、執上黨太守、舉兵守壺關口。遣樂進・李典撃之、幹還守壺關城。
十一年春正月、公征幹。幹聞之、乃留其別將守城、走入匈奴、求救於單于、單于不受。公圍壺關三月、拔之。幹遂走荊州、上洛都尉王琰捕斬之。
秋八月、公東征海賊管承、至淳于、遣樂進・李典撃破之、承走入海島。割東海之襄賁・郯・戚以益瑯邪、省昌慮郡。
三郡烏丸承天下亂、破幽州、略有漢民合十餘萬戸。袁紹皆立其酋豪為單于、以家人子為己女、妻焉。遼西單于蹋頓尤彊、為紹所厚、故尚兄弟歸之、數入塞為害。公將征之、鑿渠、自呼沲入泒水、名平虜渠。又從泃河口鑿入潞河、名泉州渠、以通海。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、幽州の反乱、并州刺史高幹、青州東萊郡長広県の人管承を撃退。



管承は島嶼部に逃げ込んだのだろう。この地域は海路で遼東とも揚州とも繋がっていたようなフシがあるので、管承は島の方でその後も元気にやっていたのかもしれない。





冀州の人間は親子でさえもディスりあうと聞く」と始まる偏見のような命令。これは結局何を命じたのかよく分からない。おそらく、煽りコメやデマツイは禁止するぞ、という意味合いなのだろう。


命令中の直不疑・王鳳・谷永・王商・張匡は前漢、第五伯魚(第五倫)は後漢の人である。ちなみに彼らは「父のいない妻を娶っているのに妻の父を打擲したと言われた」といった事実無根のデマツイの事例として挙げられているだけで、冀州以外の出身者の方が多い。




烏丸討伐のために水路を整備するあたり、魏武は冀州とその後方を徹底的に安定化させるという意気込みがあったのだろうか。


この時期の魏武はザ・天下人といった風情がある(個人的感想)。