三国志はじめての官職:州

今度は三国志の時代の地方の制度について説明していこうと思う。




後漢の地方の制度は、大づかみに分けると「」「」「」に区分される。




範囲としては「州」が一番広く、「州」の中にいくつかの「郡」が、「郡」の中にいくつかの「県」がある、というイメージである。





「州」には「刺史(州刺史・部刺史)」が一人ずつ置かれた。


外十二州、毎州刺史一人、六百石。
本注曰、秦有監御史、監諸郡、漢興省之、但遣丞相史分刺諸州、無常官。孝武帝初置刺史十三人、秩六百石。成帝更為牧、秩二千石。建武十八年、復為刺史、十二人各主一州、其一州屬司隸校尉。諸州常以八月巡行所部郡國、録囚徒、考殿最。初歲盡詣京都奏事、中興但因計吏。
(『続漢書』志第二十八、百官志五)

「刺史」の職務は、担当の州内の郡を巡回して刑罰の運用など、郡が正しく運営されているかという点をチェックし、郡の長官たちの評価(「殿最」とは成績最下位と最上位のこと)を付けることであった。



その意味では「郡」「県」と違い、直接統治するわけではないのだが、中央から派遣されてチェックする監察官ということなので、結局は「郡」を指導するようになっていく。そして階級を無視して「郡」の長官の事実上の上司として機能するようになっていた*1




時靈帝政化衰缺、四方兵寇、(劉)焉以為刺史威輕、既不能禁、且用非其人、輒筯暴亂、乃建議改置牧伯、鎮安方夏、清選重臣、以居其任。焉乃陰求為交阯、以避時難。議未即行、會益州刺史郗儉在政煩擾、謠言遠聞、而并州刺史張懿・涼州刺史耿鄙並為寇賊所害、故焉議得用。
出焉為監軍使者、領益州牧、太僕黄琬為豫州牧、宗正劉虞為幽州牧、皆以本秩居職。州任之重、自此而始。
(『後漢書』列伝第六十五、劉焉伝)


そして、後漢も末期近くなってくると反乱の頻発などによって刺史では対応できないと考えられるようになり、「州牧」が置かれるようになった。



これは、どちらかというと「期待の若手・中堅」が就任するようなケースが多かった刺史を、大臣クラスの大物にやらせることにし、同時に「州牧」と改称したのである。



この建議者である劉焉はあの劉璋の父であり、彼は親子でずっと益州(蜀)に陣取っていたことからわかるように、この「州牧」は高い格と強い権限のために軍閥化しやすかったと考えられる。




ただし、全ての州が「州牧」に切り替わったわけではなく、従来通りの「刺史」を置いた州もあったようなので注意。


というよりも、就任者の格、経歴などによって「州牧」だったり「刺史」だったりしたと思った方が良いだろう。




なお、後漢後半における州は以下の通りである。


以上12だが、実は「洛陽」「長安」といったいわば首都圏はこの州の中に含まれていないので注意が必要である。



また、後漢末以降は上記の州の数や区分がいろいろと変わっているし、また三国それぞれで扱いが違っているところもあったので要注意である。


この首都圏についてどうだったかについては、先に答えを言うと「司隷校尉」が刺史と同じ役割を果たしていたが、その点については司隷校尉を説明する時に語ることになるだろう。

*1:いずれもう少し詳しく説明すると思うが、「刺史」よりも「郡」の長官の方が階級上は上位なのである。中央から派遣されたキャリアの若手が所轄の警察署長を事実上アゴで使う、みたいな状態が近いだろう。

*2:豫州