燕王旦の反乱(第一次)

唐突だが、『史記』補にある燕王旦と使者のやりとりについて記す。

脅しつつ戦争を回避しようとする感じが面白かったから。

武帝崩、昭帝初立、(燕王)旦果作怨而望大臣。自以長子當立、與齊王子劉澤等謀為叛逆、出言曰「我安得弟在者!今立者乃大將軍子也。」欲發兵。
事發覺、當誅。昭帝縁恩𥶡忍、抑案不揚。公卿使大臣請、遣宗正與太中大夫公戸滿意・御史二人、偕往使燕、風喻之。
到燕、各異日、更見責王。宗正者、主宗室諸劉屬籍、先見王、為列陳道昭帝實武帝子状。
侍御史乃復見王、責之以正法、問「王欲發兵罪名明白、當坐之。漢家有正法、王犯纖介小罪過、即行法直斷耳、安能𥶡王。」驚動以文法。王意益下、心恐。
公戸滿意習於經術、最後見王、稱引古今通義、國家大禮、文章爾雅。謂王曰「古者天子必内有異姓大夫、所以正骨肉也。外有同姓大夫、所以正異族也。周公輔成王、誅其両弟、故治。武帝在時、尚能𥶡王。今昭帝始立、年幼、富於春秋、未臨政、委任大臣。古者誅罰不阿親戚、故天下治。方今大臣輔政、奉法直行、無敢所阿、恐不能𥶡王。王可自謹、無自令身死國滅、為天下笑。」於是燕王旦乃恐懼服罪、叩頭謝過。大臣欲和合骨肉、難傷之以法。
(『史記』巻六十、三王世家、補)

漢の武帝が死亡し、末子で幼い昭帝が即位すると、武帝の子で最年長だった燕王旦は反発し、仲間と共に反逆を企てた。

そこで「俺の弟がこんなに幼いのに皇帝なわけがない。今即位しているというのは大将軍(霍光)の子を偽って皇帝の子としているのだろう」などと宣言し、軍を動かそうとした。
しかし計画は発覚し、燕王は本当ならば誅殺されるところであったが、皇帝が(おそらく実際には大臣たちが)秘密にしておいた。

処罰によって反発が他方にまで広がるのを懸念したのだろう。



そこで、朝廷は燕王に対して皇室全体をつかさどる大臣である宗正と、皇帝の側近で法をつかさどる侍御史と、皇帝のアドバイザー的役割を果たす太中大夫を遣わして燕王を説得しようとした。



宗正は、昭帝は本当に武帝の子供なんだということを説明した。

逆に言うと、ちゃんと説明しないと武帝の子だと信用されないような怪しいところが昭帝にはあったということであり、そこを突いて流された風聞について否定しようとしたのだろう。




侍御史は、「王の犯罪行為は明白ですよ。王であっても小さな罪で処罰されるものだというのに、燕王が許されるなどという道理はありませんよ」と厳しく追及する。



そして太中大夫の公戸満意(人名)は、「いにしえより天子のそばには異姓の大臣がおりましたが、これは天子の血族を正すためです。外には天子の同姓がおりましたが、これは異姓の者を正すためです。周公は謀反を起こした実の弟を誅殺したので天下が治まりました。先帝は王を許すだけの度量がありましたが、即位したばかりの今の皇帝は政治を大臣に委任しておりますので、皇帝の許しは期待できません。昔から処罰は血族であっても回避しないからこそ天下は治まるのだと言われております。今は大臣が国政を委任されており、王を贔屓することなどございませんので、おそらく王は赦されることは無いでしょう。王は身を慎み、誅殺されて天下の笑いものになることのないようにしなされ」と諭した。

つまり、意地を張って滅ぼされる前に謝りなさい、ということである。


燕王もついに折れて謝罪したため、誅殺や領地取り上げはされずに済んだのだった。



折れなければ戦争になったはずであり、それは燕王自身はもちろん、幼帝を擁立した霍光らも望んでいなかったのだろう。