『漢書』韋玄成伝その3

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罷郡國廟後月餘、復下詔曰「蓋聞明王制禮、立親廟四、祖宗之廟、萬世不毀、所以明尊祖敬宗、著親親也。朕獲承祖宗之重、惟大禮未備、戰栗恐懼、不敢自顓。其與將軍・列侯・中二千石・二千石・諸大夫・博士議。」
玄成等四十四人奏議曰「禮、王者始受命、諸侯始封之君、皆為太祖。以下、五廟而迭毀、毀廟之主臧乎太祖、五年而再殷祭、言壹禘壹祫也。祫祭者、毀廟與未毀廟之主皆合食於太祖、父為昭、子為穆、孫復為昭、古之正禮也。祭義曰『王者禘其祖自出、以其祖配之、而立四廟。』言始受命而王、祭天以其祖配、而不為立廟、親盡也。立親廟四、親親也。親盡而迭毀、親疏之殺、示有終也。周之所以七廟者、以后稷始封、文王・武王受命而王、是以三廟不毀、與親廟四而七。非有后稷始封、文・武受命之功者、皆當親盡而毀。成王成二聖之業、制禮作樂、功紱茂盛、廟猶不世、以行為諡而已。禮、廟在大門之内、不敢遠親也。臣愚以為高帝受命定天下、宜為帝者太祖之廟、世世不毀、承後屬盡者宜毀。今宗廟異處、昭穆不序、宜入就太祖廟而序昭穆如禮。太上皇・孝惠・孝文・孝景廟皆親盡宜毀、皇考廟親未盡、如故。」
大司馬車騎將軍許嘉等二十九人以為孝文皇帝除誹謗、去肉刑、躬節儉、不受獻、罪人不帑、不私其利、出美人、重絶人類、賓賜長老、收恤孤獨、紱厚祈天地、利澤施四海、宜為帝者太宗之廟。
廷尉忠以為孝武皇帝改正朔、易服色、攘四夷、宜為世宗之廟。
諫大夫尹更始等十八人以為皇考廟上序於昭穆、非正禮、宜毀。

郡国廟廃止決定の一月余り後、元帝はまた詔を下した。
「聞いたところでは賢明なる王は礼を定め、先祖の廟4つを立て、太祖、太宗の廟は何代経っても廃止しないようにして先祖を敬ったと言う。私は太祖、太宗以下から重い責任を受け継いでいるが、礼はまだ完備されていないと思うが自分ごときに変えられるものかと恐れてなかなか断行できないでいる。おまえら将軍以下大臣や大夫、博士どもで議論しろや」

韋玄成ら44人は議論を上奏した。
「礼によれば最初に天命を受けた王、最初に封建を受けた君主は太祖となり、5つの廟は世代が過ぎると廃止して位牌は太祖廟の中に収蔵します。周の天子の廟は7つだったというのは、最初に封建された后稷と天命を受けて王となった文王、武王の廟は廃止しないものとし、代々の廟4つと合わせて7つとしたものです。それ以外は、成王のような礼を制定し徳も盛んであった王であっても永続させませんでした。私めが思うに、高祖の廟を太祖廟とし永続させ、それ以外は代々の廟として代が過ぎたら廃止するようにすべきです。また今は宗廟の場所がそれぞれ違っていて、昭・穆という世代順に並んでいません。太祖廟に統合して順番に配列すべきです。太上皇・孝惠・孝文・孝景帝の廟は世代が既に過ぎているので、廃止すべきです。皇考廟はまだ世代が過ぎていないのでそのままでいいです」

大司馬車騎将軍許嘉等29人は上奏した。
「文帝は色々と超凄い名君なので太宗廟にするべきです」

廷尉忠は上奏した。
武帝は暦改めたり制度変えたり四夷を打ち払ったりして凄かったので世宗ってことで」

諫大夫尹更始等18人は上奏した。
「皇考廟を天子の廟の世代に混ぜるのは礼に合わなくていけないと思うので廃止すべきです」


「天子七廟」について語る前にまずおさらい。
この時点で漢の皇帝の宗廟として立てられたのは以下の通り。

  1. 太上皇
  2. 太祖高皇帝(高祖劉邦
  3. 恵帝
  4. 文帝
  5. 景帝
  6. 武帝
  7. 昭帝
  8. 考皇
  9. 宣帝

以上の9つの廟があったことになる。
「天子七廟なんだから多すぎだって!なんとかしようZE!」っていうのが元帝の命令の主旨である。


最初の韋玄成たちの考え方は「天子七廟は周の場合だけ。凡例ではそもそも5廟。高祖は特別なので廃止しない太祖廟にするけど他は特別扱いせず、最新4つだけ残す。よって武・昭・考皇・宣帝の4廟と太祖廟のみを残し、景帝より前は高祖以外全部廃止で」ということ。

一方、許嘉(外戚)らの意見は、おそらく大筋は韋玄成に沿いつつも「文帝は超スゴイので太祖と同じように廃止しない太宗廟にしましょう」ということ。

廷尉忠は同様に武帝も世宗廟とし廃止しないようにしようということ。

諫大夫尹更始らの意見は、「そもそも生前に皇帝扱いされてない考皇(宣帝の父)は仲間外れなので除外すべきだ」ということ。


意見は微妙に、しかし重大な点で割れている。
この件はまだ続く。