民間人から王

十一年春、故韓王信復與胡騎入居參合、距漢。
漢使柴將軍撃之、遺信書曰「陛下𥶡仁、諸侯雖有畔亡、而復歸、輒復故位號、不誅也。大王所知。今王以敗亡走胡、非有大罪、急自歸!」
韓王信報曰「陛下擢僕起閭巷、南面稱孤、此僕之幸也。滎陽之事、僕不能死、囚於項籍、此一罪也。及寇攻馬邑、僕不能堅守、以城降之、此二罪也。今反為寇將兵、與將軍爭一旦之命、此三罪也。夫種・蠡無一罪、身死亡。今僕有三罪於陛下、而欲求活於世、此伍子胥所以僨於呉也。今僕亡匿山谷輭、旦暮乞貸蠻夷、僕之思歸、如痿人不忘起、盲者不忘視也、勢不可耳。」遂戰。柴將軍屠參合、斬韓王信。
(『史記』巻九十三、韓信盧綰列伝)


韓王信は元は民間にいたところを高祖劉邦見出され、王になれたらしい*1




考えてみると先代の韓王は「韓諸公子膻陽君成」と、韓が滅ぶ前なのか秦における号なのか不明だが何らかの称号を得ていたらしいが、韓王信には無い。



つまり、韓王信は韓王の子孫とはいえその他大勢の一般ピーポーに近い扱いであったかもしれないということだ。


劉邦は育った環境が近くて話が合ったために韓王信を選んだとか、真相はそんなところかもしれない。

*1:最初は韓の将となり、その後王となった。