于禁の遅刻



ほう。


時孫權稱藩、請送任子、當遣前將軍于禁還、久而不至。
天子以問(司馬)孚、孚曰「先王設九服之制、誠以要荒難以徳懐、不以諸夏禮責也。陛下承緒、遠人率貢。權雖未送任子、于禁不至、猶宜以𥶡待之。畜養士馬、以觀其變。不可以嫌疑責讓、恐傷懐遠之義。自孫策至權、奕世相繼、惟強與弱、不在一禁。禁之未至、當有他故耳。」後禁至、果以疾遲留、而任子竟不至。
(『晋書』巻三十七、安平献王孚伝)


呉の孫権が魏に服属を申し出た時、魏は人質を送ることを求め、当時呉に居た于禁に送ってこさせることにしていたが、一向に魏にやってこない。



魏の皇帝曹丕がこのことについて司馬孚に尋ねたところ、司馬孚はこう答えた。


「古代の王が九服の制度を作ったのは周辺の異民族を従わせるためのもので、中華の礼を適用すべきものではありませんでした。
このたび孫権は人質を送ってきませんが、于禁も来ないかどうかはまた別なのでもう少々お待ちください。その間に軍備を整えて孫権が約束を守らなかった時の備えをしておきましょう。
まだはっきりしていないうちから呉を非難しては、遠方がこちらの徳を慕って来なくなってしまいます。
孫一族は代々続いており、その強弱は于禁一人で変わるものではありません。
于禁が来ないのは別の理由があるに違いありません。」


つまり、司馬孚は于禁が来ないのは孫権が派遣しないからではない、今に来るはずだ、と言っている。


そして于禁は魏へやってきたが、孫権の人質はいなかった。

于禁は道中で病気になって遅れていただけだった。





魏側が呉をどう取り扱おうと思っていたかという点と、于禁が呉に居た頃からすでに体調を崩していたらしいことが窺える。