悪が来る

紂又用惡來。惡來善毀讒、諸侯以此益疏。
(『史記』巻三、殷本紀)

其玄孫曰中潏、在西戎、保西垂。生蜚廉。蜚廉生惡來。惡來有力、蜚廉善走、父子倶以材力事殷紂。周武王之伐紂、并殺惡來。
【注】
集解、晏子春秋曰「手裂虎兕。」
(『史記』巻五、秦本紀)

忽見帳下大旗為風所吹、岌岌欲倒、衆軍士挾持不定。(典)韋下馬喝退衆軍、一手執定旗桿、立於風中、巍然不動。(曹)操曰「此古之惡來也!」
(『三国演義』第十回)

三国演義』で「悪来のようだ」と曹操に評された典韋




悪来は『史記』殷本紀等では讒言が得意な人物として記録されているが、一方で秦本紀では怪力の持ち主とされ、彼の兄弟が秦王の祖になったと伝えられている。



典韋悪来に準えはじめるのはいつのどの書からなんだろう?