七十二歳

五年、予嘗為本郡中正、清定事訖、求休還家、往與(譙)周別。周語予曰「昔孔子七十二、劉向・揚雄七十一而沒。今吾年過七十、庶慕孔子遺風、可與劉・揚同軌、恐不出後歳、必便長逝、不復相見矣。」疑周以術知之、假此而言也。
(『三国志』巻四十二、譙周伝)


「予」というのは『三国志』の編者陳寿自身のこと。

家に戻ろうという彼が譙周に会って別れを告げると、譙周はこう述べたという。


「孔丘先生は72歳、劉向・揚雄は71歳で死んだ。私も70歳を過ぎたので、孔丘先生を慕い、劉向・揚雄と同じ道を行きたいものだ。たぶん来年には俺死ぬからお前ともこれが最後のお別れだな」


陳寿は譙周は自分の寿命を天文の秘術によって知っているからそんなことを言うのではないかと思ったそうだ。




(劉)向自見得信於上、故常顯訟宗室、譏刺王氏及在位大臣、其言多痛切、發於至誠。上數欲用向為九卿、輒不為王氏居位者及丞相御史所持、故終不遷。居列大夫官前後三十餘年、年七十二卒。
(『漢書』巻三十六、劉向伝)

「年七十二卒」・・・。


あれ?譙周先生間違ってる?