高祖の母の姓

高祖、沛豐邑中陽里人也、姓劉氏。母媼嘗息大澤之陂、夢與神遇。
【注】
文穎曰「幽州及漢中皆謂老嫗為媼。」孟康曰「媼、母別名、音烏老反。」師古曰「媼、女老稱也、孟音是矣。史家不詳著高祖母之姓氏、無得記之、故取當時相呼稱號而言也。其下王媼之屬、意義皆同。至如皇甫謐等妄引讖記、好奇騁博、強為高祖父母名字、皆非正史所説、蓋無取焉。寧有劉媼本姓實存、史遷肯不詳載?即理而言、斷可知矣。他皆類此。」
(『漢書』巻一上、高帝紀上)

四年冬十月壬寅、立皇后張氏。
【注】
師古曰「張敖之女也。史記漢書無名字、皇甫謐作帝王世紀皆為惠帝張后及孝文薄后已下別制名焉、至於薄父之徒亦立名字、何從而得之乎?雖欲示博聞、不知陷於穿鑿。」
(『漢書』巻二、恵帝紀

漢書』の注釈者顔師古先生は、晋の皇甫謐が『帝王世紀』の中で漢の高祖の母やら恵帝の皇后張氏やら文帝の母薄氏の父やらの本姓や名や字を記していることを批判している。

「高祖の母の本姓が本当に残っているとしたら、どうして司馬遷はそれを記さなかったのか?」「どこでそんな情報を得たのか?」と。



確かに前漢初期の人物について晋代になって初登場の情報があるというのは少々胡散臭いところだ。




「草稿がウチにあったんだけど火事で燃えちゃったからもう見る事できないんだよねー。でもその抜粋なら作ってあるよ?」という出自の『西京雑記』なんてものもあるが。