新説傅士仁

又南郡太守麋芳在江陵、將軍傅士仁屯公安、素皆嫌羽輕己。
(『三国志』巻三十六、関羽伝)


関羽と共に荊州にいた将軍、傅士仁

彼については『三国志関羽伝の上記箇所以外では「士仁」であり、姓が士、名が仁という人物というのが正しく「傅士仁」は誤りと一般には考えられている。


しかし、これを見てほしい。

(侯)景遣儀同傅士哲呼侃與語曰「侯王遠來問訊天子、何為閉距、不時進納?尚書國家大臣、宜啟朝廷。」
(『梁書』巻三十九、羊侃伝)

ここに「傅士哲」なる人物がいるではないか。

傅士という二字姓で名が哲ということか?
これは呉に降った傅士仁の子孫が呉に定住し南朝梁に仕えたものに違いないですぜ!(憶測)


劉備の将軍の姓名は「傅士仁」(姓が傅士、名が仁)が正しかったんや!!




士哲又曰「侯王事君盡節、不為朝廷所知、正欲面啟至尊、以除姦佞。既居戎旅、故帶甲來朝、何謂作逆?」
(『梁書』巻三十九、羊侃伝)

・・・あれ?「傅士哲」って姓が傅で名が士哲・・・?*1

*1:この記事はツイッターにてフォロワー諸氏とのやりとりの中から生まれました。