鄧梁薄鄧

(韓)棱孫演、順帝時為丹陽太守、政有能名。桓帝時為司徒。大將軍梁冀被誅、演坐阿黨抵罪、以減死論、遣歸本郡。
【注】
華嶠書曰「梁皇后崩、梁貴人大幸、將立、大將軍冀欲分其寵、謀冒姓為貴人父、演陰許諾、及冀誅事發、演坐抵罪」也。
(『後漢書』列伝第三十五、韓棱伝)

桓帝鄧皇后諱猛女、和熹皇后從兄子鄧香之女也。
母宣、初適香、生后。改嫁梁紀、紀者、大將軍梁冀妻孫壽之舅也。后少孤、隨母為居、因冒姓梁氏。冀妻見后貌美、永興中進入掖庭、為采女、絶幸。
明年、封兄鄧演為南頓侯、位特進。演卒、子康嗣。
及懿獻后崩、梁冀誅、立后為皇后。帝惡梁氏、改姓為薄、封后母宣為長安君。四年、有司奏后本郎中鄧香之女、不宜改易它姓、於是復為鄧氏。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、桓帝鄧皇后)

後漢桓帝の鄧皇后は当初は梁氏を名乗っていたというので、梁冀が自分を父であることにしようとした梁貴人というのは、こののちの鄧皇后のことなのだろう。



鄧氏だったが母の再婚相手の姓を名乗って梁氏となり、しかもあの梁冀の娘ということにされそうになった、という経緯らしい。



まあ、梁冀は実子だと偽ったのではなく養子ということにしようとした、とかかもしれないが。




なかなかに複雑怪奇だ。ちなみに彼女はこのあと薄氏に改姓から鄧氏に復帰するという流れまであって、自分の今の姓が何なのかわからなくなりそうである。