太尉府

漢官儀曰「張衡云『明帝以為司馬*1、司空府已榮、欲更治太尉府。時公趙憙也。西曹掾安衆鄭均、素好名節、以為朝廷新造北宮、整飭官寺、旱魃為虐、民不堪命、曾無殷湯六事、周宣雲漢之辭。今府本館陶公主第舍、員職既少、自足相受。憙表陳之、即見聽許。其冬、帝臨辟雍、歴二府、光觀壯麗、而太尉府獨卑陋。顯宗東顧歎息曰「椎牛縱酒、勿令乞兒為宰。」時憙子世為侍中、驂乘、歸具白之、憙以為恨、頻譴責均、均自劾去、道發病亡。』」
(『続漢書』志第二十四、百官志一注引『漢官儀』)


後漢の明帝は三公の太尉府を改築しようと考えたが、その時の太尉である趙憙は部下の鄭均の進言を容れて「今は朝廷で北宮を新築したばかりだし旱魃とか大変です。太尉府は館陶公主のお屋敷だったものを使っておりますが、勤務する職員が少ないので今でも十分間に合います。」と明帝に献策、改築計画は沙汰やみになった。


しかし、その後明帝が三公府を見回った時、司徒・司空府は壮麗であったが太尉府だけがみすぼらしいままだったために機嫌を損ね、「食べ放題飲み放題のハレの日だが、太尉の息子を県令にしてやってくださいなどというお願いは聞き入れてはならぬぞ」と言ったという。

つまり太尉府改築に反対した趙憙への怒りを露わにしたのである。


侍中の息子よりそれを聞いた趙憙は進言者鄭均を責め、鄭均は失意のうちに病死したのだった。



太尉は三公の最上位なのだが、もっとも役所が小さくみすぼらしかったというのは面白い。

*1:「司徒」の誤りではなかろうか。