獻帝起居注曰、建安十三年、為司徒趙温所辟。太祖表「温辟臣子弟、選舉故不以實」。使侍中守光祿勳郗慮持節奉策免温官。
(『三国志』巻二、文帝紀注引『献帝起居注』)
後漢末の司徒趙温は、司空曹操の子曹丕を自分の幕僚として招いたところ、「不正な推挙である」といったことを曹操より言われて罷免されることとなった。
曹操に対するご機嫌取りということか、それともマウントを取ろうとしているみたいな意味合いなのか。
ただ、この時の曹丕を父親が招くということこそ「不実」になるだろうし、皇帝と曹操の関係を考えると皇帝が直々に召し出すというのも考えにくい(そういう権限を事実上奪われていたかもしれない)。
そうなると、曹丕が仕官するに際して、「三公による辟召」などのそれなりの格を保った形を作ることができるのは、三公である司徒趙温しかいないではないか。
実際には曹操さんサイドから「曹丕仕官のため一肌脱いでくれ」みたいな請託か無言の圧力があったのではないのか?
そして趙温としても殊更に反発するような事とも考えられず、大した話とも思わずに曹丕を召し出した。
そうしたところ急に曹操が難癖を付け始めた、のではなかろうか。
そうすることで司徒は空位となり、「もはや碌な三公もいないし候補もいない」という形を作り出すことになる。司徒の権限は曹操が丞相として吸収してしまう、ということだろう。
つまり趙温は丞相になりたい曹操さんサイドによって騙されたんじゃなかろうか。