呉ちょっといい話

及氐人齊萬年反、朝臣惡處強直、皆曰「(周)處、呉之名將子也、忠烈果毅」乃使隸夏侯駿西征。伏波將軍孫秀知其將死、謂之曰「卿有老母、可以此辭也」處曰「忠孝之道、安得兩全!既辭親事君、父母復安得而子乎?今日是我死所也。」
(『晋書』巻五十八、周処伝)


周処は晋の人。呉の周魴の子である。


彼は剛直であったためか、それとも父が曹休を騙したことで元魏の人間に恨まれていたためか、朝廷で嫌われていたようだ。

そんな折、氐人斉万年の反乱が起こり、そこで彼が将として送り込まれることとなった。


しかし彼はこのままでは敵に殺されるか、あるいは恨む味方に殺されるか、ともかく死地に赴くことになると分かった伏波将軍孫秀は、周処に「貴方には年老いた母がいる。その母を置いては行けないという理由を付けて辞退するがよろしかろう」と忠告した。

しかし周処はそれを拒否して死地に敢えて赴くのだった。



この孫秀は呉末期に晋に降伏して武帝縁者を嫁に貰った孫秀のことである。

周処の例を見ても分かるように呉の人間は当時朝廷内で肩身が狭かったようなのだが、孫秀はそんな呉人をこのように陰で支えていたのではないかと思われる。