棗祗の子孫

棗據字道彦、潁川長社人也。本姓棘、其先避仇改焉。
父叔禕、魏鉅鹿太守。
美容貌、善文辭。弱冠、辟大將軍府、出為山陽令、有政績。遷尚書郎、轉右丞。賈充伐呉、請為從事中郎。軍還、徙黄門侍郎。冀州刺史、太子中庶子。太康中卒、時年五十餘。所著詩賦論四十五首、遇亂多亡失。
子腆、字玄方、亦以文章顯。永嘉中為襄城太守。
弟嵩、字臺産、才藝尤美、為太子中庶子、散騎常侍、為石勒所殺。
(『晋書』巻九十二、文苑伝、棗拠)

魏武故事載令曰「故陳留太守棗祗、天性忠能。・・・(中略)・・・祗子處中、宜加封爵、以祀祗為不朽之事。」
文士傳曰、本姓棘、先人避難、易為棗。孫據、字道彦、晉冀州刺史。據子嵩、字臺産、散騎常侍。並有才名、多所著述。嵩兄腆、字玄方、襄陽太守、亦有文采。
(『三国志』巻十六、任峻伝注)


『晋書』棗拠伝によると文人「棗拠」の父は「棗叔禕」だそうだが、これはどう見ても三国志ッ子ならみんな必要以上に知っている屯田制のアレの人「棗祗」の子孫たちである。



三国志』注の方も参照してそれぞれを合わせて考えると、「棗祗」の子には「棗処中」と「棗叔禕」がいて*1、棗拠らはそのうち「棗叔禕」の子ということになるのか。





大した疑問ではないし実際のところは幾ら考えたってわからないことではあるが、なぜ『晋書』は棗拠らが三国志ッ子ならみんなryの人「棗祗」の子孫であるということを書かなかったのだろうか。

*1:もちろん、この二人が同一人物である可能性もある。その場合は「処中」「叔禕」の片方は「字」か別名ということになるだろう。