厳蔲と陳矯

廣陵劉穎與(嚴)蔲有舊、穎精學家巷、權聞徴之、以疾不就。其弟略為零陵太守、卒官、穎往赴喪、權知其詐病、急驛收録。蔲亦馳語穎、使還謝權。權怒廢蔲、而穎得免罪。
(『三国志』巻五十三、厳蔲伝)


呉の厳蔲の友人、広陵の人劉穎。彼は孫権が召し出した時に病気と称して出仕しなかったが、弟の零陵太守劉略(弟は呉に出仕したのだろう)が死亡した時に彼の葬式に駆け付けたことから孫権は劉穎の仮病を知って激怒した。


孫権は劉穎を捕えようとしたが友人厳蔲は急ぎ劉穎にそのことを伝え、孫権に謝罪させた。

孫権は裏で糸を引いた厳蔲を罷免したが、劉穎は厳蔲のお蔭で処罰されずに済んだという。




広陵の劉氏って、もしかして陳矯の実家だろうか。

陳矯字季弼、廣陵東陽人也。
(『三国志』巻二十二、陳矯伝)

魏氏春秋曰、(陳)矯本劉氏子、出嗣舅氏而婚于本族。
(『三国志』巻二十二、陳矯伝注引『魏氏春秋』)


陳矯は元は劉氏で、母方の一族陳氏の後継ぎとなって陳氏となって劉氏の女性と結婚したと伝わる。

彼の実家劉氏が広陵の人かどうかははっきり書かれていないが、代々通婚関係にある家というのは同じ郡であることが多いように思われるので、広陵の人である可能性は低くないだろう。



もちろんこの劉氏が広陵の人だからといって劉穎の近親とは限らないが。