一票の逆格差

詔書法令、二十萬口、邊郡十萬、歲舉孝廉一人、員除世舉廉吏一人*1。羌反以來、戸口減少、又數易太守、至十歲不得舉。當職勤勞而不録、賢俊蓄積而不悉、衣冠無所覬望、農夫無所貪利、是以逐稼中災、莫肯就外。
古之利其民、誘之以利、弗脅以刑。易曰「先王以省方觀民設教。」
是故建武初、得邊郡、戸雖數百、令歲舉孝廉、以召來人。今誠宜權時令邊郡舉孝一人、廉吏世舉一人、益置明經百石一人、内郡人將妻子來占著、五歲以上、與居民同均、皆得選舉。又募運民耕邊入穀、遠郡千斛、近郡二千斛、拜爵五大夫。可不欲爵者、使食倍賈於内郡。如此、君子小人各有所利、則雖欲令無往、弗能止也。
此均苦樂、平傜役、充邊境、安中國之要術也。
(王符『潜夫論』実辺第二十四)


後漢涼州人王符によれば、辺境の郡では10万人ごとに孝廉1人を推挙できたという。
しかし、涼州は羌の反乱によって人口が激減しており、10年たっても1人も推挙できないということがあった。
このため涼州の人間は仕事熱心でも才能が有っても推挙されず、農民もまた利を貪る術がなく、ために糧を得ようとして禍が起こり、外部に頼ろうとしない気風が生まれたのだと。



つまり王符はこの辺境軽視が辺境における反乱頻発や長期化の原因だと言いたいのだろう。
中央に従っていても何の利益も無いとなれば、反乱する者、反乱に同調する者が増える。
実際に見聞し、体験したことに基づく分析として傾聴に値すると言えよう。




そして王符は解決策も提示する。

光武帝の頃は戸数が少なくとも毎年孝廉推挙を認めていた。これからもそれと同じように毎年推挙を許す等の辺境優遇策を実施すべきだと言う。

また、辺境に食料を送り込んだ者には爵位か恩賞を与えるようにすべきだとも言う。これは前漢の晁錯が主張した策と同様のものだろう。辺境で食料不足等を起こさないためには必要な措置とも言える。



これが全て実行されたとしても辺境問題が解決するかどうかは怪しいものだが、王符の言うように辺境が軍事的経済的なものはもちろん、政治的にも捨てられているという認識が、辺境を更に反乱へと駆り立てていたのではないかという点は重要なのではなかろうかと思う。

特に、一見それほどのことでもない、むしろ人口比によって推挙人数を区切るという合理的に見える孝廉制度が辺境の中央政府に対する絶望を深めていたことは注目すべきではないだろうか。


*1:彭鐸の校正によればこの部分には誤脱があるらしい。