『潜夫論』を読んでみよう−救辺篇その2

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140831/1409412781の続き。

前羌始反、公卿師尹咸欲捐棄涼州、卻保三輔、朝廷不聽、後羌遂侵、而論者多恨不從惑議。
余竊笑之。所謂媾亦悔、不媾亦有悔者爾、未始識變之理。
地不可*1無邊、無邊亡國。是故失涼州、則三輔為邊。三輔内入、則弘農為邊。弘農内入、則洛陽為邊。推此以相況、雖盡東海猶有邊也。
今不窅武以誅虜、選材以全境、而云邊不可守、欲先自割、示偄寇敵、不亦惑乎?
(『潜夫論』救辺第二十二)


以前、羌族が反乱し始めたとき、大臣や軍部の連中は涼州を放棄して三輔を防衛ラインとすべしとの論を展開したが朝廷は却下した。


その後、羌族が大挙侵入してくると、その論に従わなかったことを悔いる者が多かった。




しかし、私はそれをひそかにせせら笑っていた。



これは「事が成ったとしても後悔することになるし、成らなくても後悔する」というもので、ものごとの変化を知らない者の言いぐさなのである。





領地というのは辺境が存在しないということはありえない。辺境が無ければ国が亡くなってしまうのだ。



涼州を失うことになれば三輔が辺境ということになる。三輔にも羌が侵入してくれば、弘農が辺境ということになる。弘農にも羌が侵入してくれば、洛陽が辺境ということになる。


同じように考えて行けば、東海の果てまで逃げたところで、辺境は存在するのである。




武力を使って羌族を退け、人材を選んで辺境を守り通すということをせずに辺境は守りきれないと言って自ら涼州を捨てて羌族に与え、敵に惰弱さを見せようなどというのは、なんと誤った論であろうか!



王符先生は涼州放棄論を攻撃する。



涼州を捨てたところで今度は三輔が攻撃に晒されるだけだぞ」


ということであり、これは涼州放棄論反対者の虞詡も言っていたことである。




王符先生は放棄論者を逃げるだけの弱虫野郎どもが!と毒づいていると言えなくもないだろう。



続く。

*1:中華書局『潜夫論箋校正』汪継培の注により「不可」を加える。