ちよ17歳

將作大匠陳國公孫志節、有蒼頭地餘、年十七、情性聰惠、儀状端正、工書疏。志節為戸曹吏、令地餘歸取資用、因持車馬亡去、至丹陽、改姓王名斌、字文高、遂留為諸曹吏。志節拜揚州刺史、郡選曹史衣冠子弟、皆出斌下、乃用之。斌乞屏左右、叩頭涕洟曰、斌即使君地餘也。斌後為蒼梧太守。
(応劭『風俗通』佚文)


将作大匠となった陳の人公孫志節の元には地余という名前の17歳の青年奴隷がいた。
地余は能力に優れていたが、主の公孫志節がある時彼に家へ戻ってお金取ってきてとお使いを頼んだところ、地余は金と馬車を持ち逃げしてそのままトンズラしてしまった。


地余は丹陽まで逃げ、そこで王斌、字文高と改名してそこに居付き、正体を隠したまま郡の役人の座に納まってしまった。


その後、公孫志節は揚州刺史となって丹陽へ来た。
彼は王斌が最も実力があると知ると王斌を部下に取り立てた。
王斌は公孫志節に会うと人払いした上で涙ながらに「私はあの時の奴隷地余でございます」と告白したのであった。


公孫志節が逃亡奴隷を許したのかどうかはっきりしないが、王斌すなわち地余はその後蒼梧太守になったという。
ということは逃亡奴隷として処罰されず、そのまま高級官僚への出世コースに乗ったのだろう。