劉氏の徭役免除

以漢高廟為文祖廟。(王)莽曰「予之皇始祖考虞帝受嬗于唐、漢氏初祖唐帝、世有傳國之象、予復親受金策於漢高皇帝之靈。惟思襃厚前代、何有忘時?漢氏祖宗有七、以禮立廟于定安國。其園寝廟在京師者、勿罷、祠薦如故。予以秋九月親入漢氏高・元・成・平之廟。諸劉更屬籍京兆大尹、勿解其復、各終厥身、州牧數存問、勿令有侵冤。」
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)


王莽は即位直後に漢の高祖の廟を「文祖廟」と改称し、また都にある漢の皇帝廟などを廃止せずお供え物を続けるよう決めた。


また漢における特権階級の劉氏について、漢王朝時代にあった徭役免除の特権を今の対象者について解除しないよう命じた。




徭役免除について「勿解其復、各終厥身」とあるのは、たぶん「徭役免除(復)を受けている者が死去しても、次の代には与えない」ことを示しているのだと思われる。



つまり、漢王朝時代なら次の代にも続いたはずの徭役を一代限りとして段階的解消を図るものだったのだろう。





徭役免除廃止は全国に多数存在して強い発言力を持っていたと思われる劉氏の反発が強いはずだが、一代は認めることで反発を和らげて時間を稼ぎ、次の代までの体制を整えて予想される反発を抑えようという政策だったのだろう。


王莽の即位から劉玄や劉秀をはじめとする劉氏の反乱が本格的に広がるまでに間があったのは、この「徭役の一代限りの継続」のお蔭だったのだろうか。



王莽は、そうやって稼いだ時間で体制を整えることに失敗したことを除けば上手くやっていた、のかもしれない。