宮殿火災

魏明帝太和五月、清商殿災。
初、帝為平原王、納河南虞氏為妃。及即位、不以為后、更立典虞車工卒毛嘉女、是為悼皇后。后本仄微、非所宜升。以妾為妻之罰也。

魏明帝青龍元年六月、洛陽宮鞠室災。

二年四月、崇華殿災、延于南閣。繕復之。至三年七月、此殿又災。
帝問高堂隆「此何咎也?於禮寧有祈禳之義乎?」對曰「夫災變之發、皆所以明教誡也。唯率禮修徳、可以 勝之。易傳曰『上不儉、下不節、孽火燒其室。』又曰『君高其臺、天火為災。』此人君苟飾宮室、不知百姓空竭、故天應之以旱、火從高殿起也。案舊占、災火之發、皆以臺榭宮室為誡。今宜罷散民役、務從節約、清掃所災之處、不敢於此有所營造。萐莆嘉禾、必生此地、以報陛下虔恭之徳。」不從。
遂復崇華殿、改曰九龍。以郡國前後言龍見者九、故以為名。

多棄法度、疲民逞欲、以妾為妻之應也。
(『宋書』巻三十二、五行志三、火)


魏の明帝こと曹叡様の時、宮殿からしばしば火災が起こっていたらしい。




流石の曹叡様も「これは何の咎だろう?お祓いした方がいいんじゃね?」みたいなことを言いだしたが、聞かれた高堂隆はここぞとばかりに「宮殿を飾ることばかり考えて民の苦しみを理解しないでいるとこうなるんです。節制に努めていれば瑞祥が起こるようになりますよ」と有名な曹叡様の土木工事批判に結び付けた。



なんかこう土木工事を止めさせる一手段として土木批判派が自作自演したんじゃないかって勘ぐりたくなる。




それはそれとして、『宋書』の見解だと主に「妾を正妻にしたことへの天からの啓示」だと言っていて、高堂隆ともまた微妙にずれているのが興味深い(『宋書』見解でも民を顧みないことも含んではいるが)。