淮南尹

用河内張烱之符命、遂僭號、以九江太守為淮南尹、置公卿、祠南北郊。荒侈滋甚、後宮數百皆服綺縠、餘粱肉、而士卒凍餒、江淮輭空盡、人民相食。
(『三国志』巻六、袁術伝)


後漢末の袁術が皇帝を称したことはあまりにも有名だが、ここで面白いのは「以九江太守為淮南尹」という点。


「尹」は「京兆尹」「河南尹」といずれも首都および前首都に使われている。

つまり袁術は淮南を首都と定めたということなのだ。


劉禅益州には一切「尹」を置いていないことや、曹操に許県に連行された献帝は許を「尹」と定めていないことと対照的だ。



当時、洛陽が丸焼けになっているとかの理由もあるのだとは思うが、「もう中原はペペペのペー!これからは淮南の時代だろJK」と表明したようなものだ。即位そのものよりもこっちの方が大胆かもしれない。