明帝死亡説

蜀大將諸葛亮寇邊、天水・南安・安定三郡吏民叛應亮。遣大將軍曹真都督關右、並進兵。右將軍張郃撃亮於街亭、大破之。亮敗走、三郡平。丁未、行幸長安。夏四月丁酉,還洛陽宮。
【注】
魏略曰、是時譌言、云帝已崩、從駕羣臣迎立雍丘王植。京師自卞太后羣公盡懼。及帝還、皆私察顏色。卞太后悲喜、欲推始言者、帝曰「天下皆言、將何所推?」
(『三国志』巻三、明帝紀、太和二年)


いわゆる諸葛亮の北伐。
諸葛亮の侵攻により天水等の三郡は降伏し、魏は隴西が切り取られる危機に直面した。

魏の明帝曹叡は大将軍曹真らを派遣すると共に、自分自身も長安へ向かった。皇帝自ら戦場となる関中に現れたのである。



そんな時、魏の都洛陽では「長安の皇帝は死去し、群臣が雍丘王曹植を皇帝に擁立した」という噂が流れた。

留守を守る明帝の祖母に当たる卞太后や洛陽の大臣たちはこの噂に恐れおののいた。


皇帝が帰還してもその噂はすぐには収束しなかったらしく、皇帝に謁見する者はみな皇帝の顔を窺ったという。
つまり、長安へ行く前の明帝と同じ人物かどうか確認したのである。


デマに踊らされた格好となった卞太后は激怒し、「そんなデマを最初にツイートした人間は逮捕しなくては!」と意気込んだが、明帝は取り合わず、「天下の者が皆言っていたことですから、言いだしっぺを探し出すことなどできますまい」と言ったという。



明帝死亡説がたやすく信じられた背景にはいったい何があったのだろうか。